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こないだ読んだ本に、こんなくだりがありました。
「現代アートは、先攻するコンテクストへの理解なしにはきちんとした理解は不可能である。
現代アートは『自由にものを見たい(鑑賞したい)』という人にとっては対極にあり、
一番忌むべきものかもしれない。」(村上隆「芸術闘争論」)
ここを読んで、なんだか似たようなこと言ってるの見たな、と思ったのがこれです。
「歌人以外の(短歌の)読みに心から納得したことはない、という意味のことを
(永田和弘が)書いているのをみたが、基本的に私も同感である。
短歌にもいろいろなものがある、そのいろいろなものの中からたまたま意味的心情的に
自分が共感しやすい歌を選んでコメントしているだけなのだ。
読みの前提となる感覚が欠けている。」(穂村弘「短歌の友人」)

どちらも、現代アートであれ短歌であれ、ある作品をより理解するには、
それを取り巻く状況とか前後に流れる歴史関係とか背景とか、
そういう文脈のなかで理解することがが前提条件になるよ、ということを言ってるのだと思う。
自分にあてはめてみても、たしかに自分に寄り添ってくるような、
共感しやすい作品や短歌だけを選択して、表面的に楽しんでいるところが多分にあるようです。
こういう「コンテクストの理解」の難しさが、現代アートや短歌といったものの鑑賞を
難しくしているのかもしれませんが、その難しさもまた、楽しむための1つの材料なのかもしれません。
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- 2013/04/08(月) 22:00:26|
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